「大きいことはいいことだ」
というチョコレートのCMが子どもの頃流れていた。
映像とともに
「大きいことって壮大で快の感覚なんだなあ」という記憶が残っている。
少なからず、既成の概念が人にはある。
同じことでも
こうあるべき、しなければいけない、と思う気持ちと
こうありたい、こうだったらいいな、と願うきもちは
感覚がまったく違う。
外的にも
あなたはこうあるべき、こうしなければいけない、と言われるときと
こうなったらいいね、こうだったらいいね、と言われた時とでは
感覚が違う。
人は自分の枠がある。それは過去の記憶によるものや価値観によるものが多い。
その枠は人それぞれ違う。
自分の枠と人の枠を同じとおもう思い込みが
葛藤を生んでいることがある。
葛藤は悪いものでもない。
葛藤はないほうが怖い。
葛藤なくして心の成長はない。
「郷に入れば郷に従え」
お嫁に行ったり、違う土地へいったり、
会社へ入ったり、、、
自分とは違う外的環境や価値観のところへ行ったら、そのありように添う
という言葉。
よくも悪くも記憶は過去で
1秒前も過去になり、1秒ごとに未来になる。
いつもしていることが習慣になり
習慣が文化になり
文化が歴史になり
歴史が学問になり
学問が伝統になり、
先人の叡智として残そうとする。
でもきっと、一番最初にそれをした人は
残そうと思ってしたことではなく、
その一番最初にした人の「想い」や「~だったらいいな」が
初心で原点で本質で、
ものごとの「ほんとう」なのかもしれない。
結婚したときは
子どもを産みたいと思っていた。
花育をしたときは
花をいきものとして感じてもらえたら
横に座っているおともだちのことも
傷つけたら自分と同じように痛いんだ、と感じてもらえるかもしれない、
と思った。
フラワーメソッドを考案したときは
人から言われると押しつけられて嫌でも、
自分が作った作品をみて自分で自分に言葉をかけたら
納得できるんじゃないか、と思った。
初めて恋愛したときは
あ、この人だと思った。
別れるときは
役は終わり、私がいないことがその人のしあわせ、と思った。
子育てに専念して花をやめたときは
花の先生はいっぱいいるしわたしじゃなくてもいいけど、
この子は私がいないと死んでしまう、と思った。
最近では
怒っているときは泣いているとき、と思った。
先日福岡で息子と同じ名前の5年生の男の子に
空港まで見送っていただきながらお話していた。
お母さんが
「まーくん、先生といっしょに写真撮る?
先生ね、凄い人なんだよ」
「え??すごくもなんとないけど、昔まーくんみたいな子どもがいた、おばさんだよ」
と説明すると
「いや、せんせいは誰もやったことがないことをした人だから、やっぱりすごいひとなんだとおもう」
まーくんはそう言った。
そうか、子どもの価値観はこういう感覚なんだな、と。
たしかに、初めてウニを食べた人は私もすごいと思う。
まーくんの「すごい」という感覚は「勇気」なのかなあ、
勇気のある人になりたのかなあ。
と思いながら
車を降りて手を振った。
私の「すごい」と思うのは「感性」。
持ってうまれた素質は誰にも真似できないし
自分にないものに「すごい」と感じる。
なので
大きいチョコレートに驚きはするけれど
すごいとは感じない。
お葬式に行って花がある空間にいるとき
悲しみの中にも癒しと和やかさと旅立ちへの花向けの要素を感じる。
人それぞれの感覚で自分の国を創って、その中で
生きているんだな、とつくづく感じる今日この頃。
自分で創り上げた世界から出るのは勇気がいる。
自由は失うことで
失うことは自由でもあるように思う。
浜崎あゆみの曲を聴いて
ほんとにそうだなあ、と感じていました。

なにをしても覚悟と責任と痛みは伴う。
痛み分けが出来た人がいたことを
人生の豊かさに感じています。
森直子 HP http://harufds.com

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